元気でいればそれでいい

今日は小学校の終業式の日。1年生が終わった(実質の区切りは今月いっぱいだけどね)。今日は後期の通信簿をもらってきた。長女の小学校は「◎・○・無印」の3段階評価らしいが、教科として、というより、教科ごとに意欲や態度、判断力、表現などなど細かく3,4項目ごとに分かれており、わかりやすいようなわかりにくいような。国語の「読む能力」だけが◎ではなく、○なので、これは音読をやっていないせいだよ、と、ついイヤミをば。


所見に「何事にも積極的に取り組む」「どの活動にも意欲的に」とあって、改めて変わったなぁと思う。ある程度、通信簿に書かれる常套句なんだろうとは思うけれど、それにしても、以前だったらもっと違ったタイプにみなされていたはず、と思う。「自分の意見を工夫して発表する」にも○がついていた。不思議な気がする。


ピアノの練習のことで、音読と同じく、いろいろな説得を続けてみたけれど、なんだか考えが定まらず。勿論、お金も余分にかかっていることだし、先生も余計に時間を作って教えてくださっていることだし、何より自分にとって「ぎりぎりまでがんばった」ってところで、結果は度外視、というのがスジだろう。適当にやって結果が出なかったり、失敗する、というのは、やっぱりいやだ。そこからでも学ぶものはあるだろうけど、それはもっと別のことでそうしてください、って感じ。


ただ、最初「本当に弾けるようになるの?!」と思った曲がなんとかミスなく弾き通せるようになったのには、大変驚いて、心からすごいなぁと思う。もう少し努力を重ねた上で、と意地悪く思ったりもするけれど、本人が『弾けた!』と思って、余裕にかまえて、2,3日きちんとレッスンしなかったら、がたんと腕が落ちて弾けなくなった...本人もかなり焦っていた...っていうことがあったから、そこから気づいたこともあったなかなぁ、と思いつつ。とはいえ、今日も帰って数回弾いただけでおしまい...なぜか(というか新しく届いたから)新学年の通信教材を続けていたりして、これまた気持ちは複雑で。


先日は、わたしの中の、取り違えていった気持ちを反省して、長女にまかせていいのでは、と思ったばかりだったんだけど、やっぱりねぇ...つい、言ってしまうところもやっぱり「親だから」あるな。先日の取り違えていた気持ち、というのは、そもそもピアノに対しては子どもに結果を望んでいないし、あくまで教養趣味の部分で、もし万が一、そっちに目覚めて進みたい!なんて言われたら、それはそれで困るし...なんて思うくらいであり、それはないにしても、本人が楽しんだり、気持ちを表現する手段・時間のために、みたいなところだけで、あまり思うように弾けるようにならなくてもいいや、って思っていたはずなのに、いざ、こうして周囲の人たちにちょこっと言われただけでも、当日失敗したら恥ずかしい、みたいな気持ちが出てきていたり、つい、同じ学年くらいの子の進み具合について思うことがあったり、われながら、そういう自分の部分に驚いた...で、反省したわけで。


毎日ちゃんと練習を続ける大事さを伝えるために、というのと、コンクールで失敗して恥をかかないために、っていうのでは、同じ「練習しなさいよ」という言葉の裏にある気持ちが伝わるんだなぁ、ということがよーーーくわかった。これからも「練習、ちゃんとしないと!」って言っちゃうのはあるけれど、その裏に結果を求めるようなことはしませんーーー。これが今回の気づき、ですな。ほほほ。