だれも...

7月のころから夏休みをはさんで、この1ヶ月くらいの間に起こったこと...それは自分んちに関係するとしないにかかわらず、子どもたちが「変わりどき」であること、そして、その親たちがどう子どもを思っていて、周囲の人たちと接していくか、ということについて考えさせられる状態が続いている。


子ども同士で起こったこと、学校内で起こったこと...そのことに対して、ひとつひとつ「えっ!」と驚くこともたくさん。折りしも、自分んちの子どもにも感じている大きな変化、それを「成長」というのは確かなんだろうけど、今まで「成長」と思ってみた変化に対して、小さい子どもでなくなっていく「さみしさ」こそあれ、ベースは「よろこび」があったわけだけれども、最近の変化に対してはひたすら「不安」がベースになっているような。よろこびがゼロ、というわけではもちろんないけれど...。


10才で自我が芽生え、その前にある9才の壁、というのを、ウチの長女は(周囲の数人の女の子たちといっしょに)ほんの少し前倒ししているように思っていたけれど、そういうことを感じて、単に感傷的に「さみしい」「心配」だなんて思っているだけ済んでいるなら、結構のんきなのかもな、ってくらい、いろいろと身近に問題が起こっていて...。自分んちの子どもは「やっていないこと」だとはいえ、本当に「ヒトゴト」ではいられないというかさ、そういう状況なり心的要因なりがそこにあるんだよね...。


何か起こった折に、そのことに対する親御さんの対応・反応がこれまた理解しがたい。というか、なんだかもう自分の子どもを守ることに(必要以上に)必死で、自分が今までに持っていた常識とは異なる価値観ばかりで驚くばかり。どの人もみな、自分の子どもを守ること、かばうことがまずあって、それは「訴訟ごと」「裁判」みたいな、そんな調子。いかにほかのことに原因を見つけて、責任をなすりつけていくか...いささか言葉は悪いけれど...そんな印象だ。


ほかの子に言われてやっただけだとか、先生がもっと前の段階で気づいて注意していれば、そもそも先生に指導力がないだとか、そんな話。先生の指導方法が悪いから、隣のクラスが騒がしいから...そりゃあ、そうだけど、どこまで原因を外にもとめてなすりつけていけばいいんだろう...と思う。それが自分んちの子どもを守ること、と信じているんだろうけど...。


自分んちの子どもにだって、もしかしたら「非」があるかもしれない、と思って話す、だとか、相手の子ども(やその親)の気持ちもどうだったろうかと少しは歩み寄ってみるとか、そういう「譲り合い」「折り合い」の部分を見せたら、「負ける」「損をする」と思っているわけで、そういう犠牲はほんのちょびっとでも被るのはまっぴらごめんだ、というか。


問題が起こっても、解決する気なんてありゃしない。親がどういう態度を示すことが子どもにとっても「教育」になるのか、そういうことはぜんぜん考えていないわけで。子どもが学校で起こしたことについて、ひたすら詫びるわけではなく、それを「ほかの子にいわれたせい」「先生が以前に注意していれば、そういえば、もともと先生には不信感があって」という話に変わって行く、その論理。
そういう論点で子どものことをかばったとして、子どもにとってなんのメリットがあるんだろう...。


それにもともとはそんなに大騒ぎすることじゃないわけで...いや、子どもにとっては大きいことだし、きちんと注意したり解決したりすることは大事だけれども、親がのこのこ出て行って大騒ぎすることではない、という意味で。大騒ぎしてどうしたいのかもさっぱりわからない。自分んちの子どもをかばったり守ったつもりなんだろうけど、それは違うわけで。いったいだれのために??


うわさ話ばっかりで、よそんちの子を悪く言って何が楽しいんだろう。いや、うわさ話は楽しいよね、そりゃぁね。


子どもがすることなんだから、親として謝ることだってあるだろうよ、と思えば、ヒトゴトではないはずだし、無責任に噂話にしていく感覚がうんざりしてしまう。


子ども同士のトラブルだってあるだろうけど、それが子ども同士の問題として解決していくよう努力できる相手ならいいけれど、結局は「なんの目的」なのかもわからないほど、相手が大騒ぎするようなことになることが心配だし、この先とっても不安だ。自分の子どもに起こったら、なんて思うと、引き寄せてしまいそうだから、あまり考えないようにしているけれど、ふと思ったわけでね。


自分にとって大事なことを忘れずに、母としてはタフにならないとね、と改めて。